日本の物語文学 第2章

1 竹取物語にみる物語の如意宝
 日本最古の物語にはたくさんの「宝物(=如意宝)」が現れる。これはその後に隆盛する物語ジャンルの特性である。物語、及び物語の登場人物たちはこの如意宝を掴んだり失ったりして話型は展開する。
 話型とは「登場人物の人生を具体的に作動させるプログラム」のこと。登場人物たちの相容れない願いが、各々別々の如意宝を探求させ、それが成就したり挫折したりして物語は紡がれる。

 

2 物語のテーマである幸福
 見えない運命を可視的に表現するのが如意宝である。この如意宝の有無で運命は変転し、数学の一次関数、二次関数のようなグラフの話型を作り出す。
 なぜ如意宝には人間の運命を何度も変える力があるのか。それは如意宝が人間の「心」のシンボルだから。
 心は目に見えないが、心は成熟と堕落を繰り返す。ここに物語が如意宝を素材とする理由がある。物語文学は「心」が如何に人間を幸福にしたり不幸にしたりするかを凝視する。
 如意宝にはどんなものがあるか。富・地位・名誉・健康、色々あるが物語文学の場合は「愛」が多い。幸福は人と人との間にあるというのが物語文学の教え。

 

3 竹取物語の場合はどうか
 翁の場合はまず、かぐや姫という如意宝を手に入れる。しかしその後、かぐや姫の意図に反して富豪と結婚させようし、結果かぐや姫の喪失につながる。(そうだったっけ? 日本昔話レベルだと初めから帰ることが決まっていたようなノリだったけど)
 求婚者たちの場合、かぐや姫獲得のため如意宝を手にしようとするが、手が届かない。その理由となる心については、おそらく結婚の動機にある。
 如意宝を持つ資格のある人間には、正しい願いを持つことが求められる。
 なお、かぐや姫が地上に現れた理由は、月世界の王曰く「月世界で罪を犯した」から。かぐや姫自身も完璧ではなかったのである。しかしこの完璧でない、傷ついたヒロイン(ヒーロー)こそ、「幸せになりたい」という願望に共感し、他人を幸福にすることができるのだという。(紫の上、人魚姫、スサノヲetc...)
 そして最後には、帝や翁はかぐや姫から渡された不死の薬を放棄する、つまり如意宝を捨てる、という話型に終わる。これは未熟さゆえの如意宝喪失とは似て非なる、真実の如意宝を獲得するための決意である。
 竹取物語が「物語の出で来はじめの親」と称されるのは、このような「愛」を如意宝として謳い上げ、それが以後に踏襲されたから。

 


 心理学で「公正世界仮説」ってやつをやったけど、物語の世界は正にこれだし、特にこの手の昔話はそれが顕著である。

心理臨床の基礎 第2章

1 ライフサイクル
 ライフサイクルという用語の歴史はエリクソンに始まる。
 レヴィンソンによればこの言葉は「出発点(誕生)から終了点(死亡)までの過程の旅」「一連の時期を『段階』に分けて捉える『四季』」としての2つの意味がある。人生の各時期には特有の問題が生じることから、これらの視点は重要である。
 ライフサイクルという用語が使われるようになった背景には①寿命が長くなったこと、②中年期以降の個性化の意義が問われるようになったこと、があげられる。

 

2 フロイトの精神性的発達段階論
 フロイトは、神経症は無意識に固着していたリビドー(性的欲動)を開放することで治癒されると考えた。そしてそのリビドーの在処を幼児期の親子関係に求めた。
 ただしこの理論は、成人神経症患者の治療の中から見出した理論であり、実際の観察に基づいたものではない。
 事実、この理論を実証しようと半世紀後に夥しい研究が行われたが、一貫した結果を得ることはなかった。

 

3 エリクソンのライフサイクル論
 エリクソンはこの発達理論を社会的・文化的な文脈で捉え直す&青年期を重視し、自らの価値選択によって自分をいかに形づくっていくかという過程が重要とした。青年期までを4段階、それ以後を4段階、計8段階に区分した。
 なお、エリクソンは女性のライフサイクル論にも論及しており、女性の身体構造「子宮」に着目した。女性な「内的空間」の成立が、女性のアイデンティティ形成にとって重要であるとしたのである。
 女性のアイデンティティのうちいくらかは、配偶者となる男性や子供のために開かれていて、内的空間に歓迎するものの選択が可能になったとき、女子青年のモラトリアムは終結するんだって。もっとも現代では、男性も女性も同様のライフサイクルとみる研究者が多いようだけども。

 


 女性のライフサイクル論は現代の独身女性が聞いたら激憤しそうな話である。でも、ほら! 「歓迎するものの『選択』が可能になったとき」って言ってるから! 選択できてれば問題ないから!

ドイツ哲学の系譜 第2章

1 『純粋理性批判』の前に
 『純粋理性批判』の構想に達する前のカントを前批判期、以後を批判期と呼んで区別する。前批判期のカントは自然科学に関心を寄せていたと見ることができる。
 「批判」……あらゆる経験に依存せずに、認識できるものとできないものを判別すること

    この試みはカント曰く「形而上学が一般に可能であるか不可能であるかの決定」に関わるという。つまり、理性の自己批判形而上学の可能性の吟味に通じる。彼は神や自由や霊魂不死などの「経験に依存しない」ものを論じてきた人なので、伝統的に哲学の最重要部門と見なされる形而上学のについても吟味しようとしたわけである。
 なお、カントの3批判書は「人間とは何か」という問いに帰着する。カントは哲学をヴェルトヴァイスハイト(世の訳知り)として受け止めた啓蒙の哲学者である。

 

2 『純粋理性批判』に至るまで
 そんなカントがイギリス経験論の哲学者ヒュームに衝撃を受けたというのは有名な話。その時点に理性批判の出発点を据える見方もあるが、しかしこの時点の彼の論文では二律背反の問題が触れられていない。(アンチノミーの問題に気づいてない?)
 ところでカントにとってのヒュームの衝撃というのは、彼の経験論を容認すれば形而上学の学は掘り崩されてしまう、ということ。つまり客観の認識を成立させるのはどのようにしてか、説明されなければならない。(ヒュームの哲学って因果を重視する感じだったっけ…)
 さて、そしてその後、教え子ヘルツに宛てた手紙の中では、「形而上学の秘密を解く鍵」として「純粋悟性概念の演繹」が明確に指摘されている。なので教科書ではここに理性批判の出発点を据えている。
 で、『純粋理性批判』の基盤となる概念「アプリオリ」と「超越論的」の意味について。
 アプリオリ……「端的にあらゆる経験に依存しない」こと、一般に経験を可能にするもの
 超越論的……アプリオリな事柄へのアプリオリな構え、を意味する形容句

 

3 『純粋理性批判
 この書物の心臓部を成すのは「超越論的分析論」の章。その要となるのが「アプリオリな綜合判断は如何にして可能か」という問題。
 綜合判断……主語Sに含まれていない要素を、述語Pが付け加える場合の判断(この花は赤い、的な?)
 この綜合判断こそ、私たちの認識を拡張し、経験に依存せず経験を可能にする性質の判断である、と。
 そのためには、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うという発想の転換が必要。
 カントにとって認識主観は認識緒能力の合成体である。ただしそこにおいて、感性と悟性は交換不能の別物であり、認識の成立においては両者の協働が不可欠となる。
 感覚は個人限りの刺激だが、悟性のはたらきによってそれは認識となる。
 アポステリオリな綜合判断の根底にはアプリオリな総合判断が存在している。すなわち、経験的認識にはアプリオリな認識が常に同伴しているのである。
 まとめると、アプリオリな綜合判断が成り立つのは、主観が対象を、空間・時間のうちに位置づけられる存在として構成する場合に、その可能性の制約として、である。
 逆にいえば、霊魂や神や自由などの物自体を論じる形而上学の学問性は否定されたことになる。

 なにこれ……

文学のエコロジー 第1章

1 導入

 かつての口承文学の時代において著作権などというものはなく、現代に伝わる古代の作品は様々な写本を学者が校訂したものであり、決してオリジナルのテキストを読んでいるわけではない(このへんはこれまでの文学科目でも常々味わったから問題なく納得)

 

2 ロマンス語
 現代のフランス語・スペイン語・イタリア語・ポルトガル語などは崩れたラテン語から派生した語(ロマンス語)といわれる。こういった言語共同体の創世記には、その民族の歴史を歌ったフィクションが作られやすいという。(ex.『イリアス』『ユーカラ』『わがシッドの歌』『ニーベルンゲンの歌』)
 なぜか? その背後に民族的エネルギーの胎動があったから?

 

3 口承性
 フランスの口承文学「武勲詩」はジョングルールと呼ばれる旅芸人によって言い伝えられた。(琵琶法師みたいなもの)
 そこでは文字ではなく声によるパフォーマンスにこそが文学の真骨頂であった。なお、曲芸・手品の動詞であるjuggleとも関係が深い。

 

4 ロランの歌
 そのフランス武勲詩の傑作ロランの歌
 作品の成立は長い伝承を経て作られたのか、天才詩人によって一気につくられたのか、はっきりは分かっていない。イリアス平家物語と同じで、口承文学にこういった問題はつきものである。
 物語の山場では、同一のアクションが表現をかえて繰り返し現れる。こういった強調によってドラマチックな効果が生まれるといい、これも語り物の特徴であるという。
(良い例が浮かばないけど、大きなカブとか、シンデレラが靴を履くシーンとか、確かに伝承物はこういった演出が多い。そしてそれがうまく機能している)

 

 

 ずっと狙っていた科目。ようやく受講できたぜ。
 テキストは少々厚いが内容はすんなり入ってくるし、今期の癒し科目になること間違いなし!

心理臨床の基礎 第1章

(1)心理療法
 心理療法は人間の負の側面を扱う故に危険を伴うものであり、熱意や親切心とは異なった専門性が求められる。また実際的訓練を受けていることも必要。クライエントが自分独自の解決を見いだす援助をするものであり、「じゃあ、こうしたみたらどう?」と安易にアドバイスするものとは本質的に異なる。

(2)臨床心理学
 心理療法よりもう少し広い実践行為を前提とする学問。健康的な人であっても学問の対象であることが要点。この臨床心理学の実践のことを「心理臨床」を呼ぶ。

 

2 心理臨床の専門性4領域
(1)査定
(2)面接
(3)地域援助
(4)研究・調査

 

3 臨床心理学が生じた4つの実践現場
(1)児童相談の現場
 はじめて「臨床心理学」の語を使用したのはウィットマー
(2)医療現場
(3)教育現場と戦争現場
 IQで知られる知能検査は、もともとビネーがフランス文部省からの委嘱をうけて作成したビネー・シモン知能検査に原型がある。
(4)職業指導の現場

 臨床心理学が様々な現場からの要求に答えるかたちで発展してきた学問である。

 

4 その後の臨床心理学
 日本の臨床心理学が本格展開を始めたのは第二次大戦後(米国文化流入後)である。

 


 まだまだ発展途上の学問だなという印象。心理学の歴史が浅いのは散々学んできたが、そのうえ日本における臨床心理学の歴史はわずか70年足らず(!) 100年後には現代の心理療法もアナログすぎて笑われているだろう。メスメルの催眠療法が今は否定されているように。

ドイツ哲学の系譜 第1章

1 ドイツ哲学とは何か
 そもそも「ドイツ」とは何か。意外にも「ドイツ」とは不分明なものである。例えばドイツ哲学の代表者であるカントが生涯を送った街ケーニスベルクがこんにちはドイツでないこと等……
 「ドイツ王国」という言葉が公式に用いられるのはヴォルムスの協約(1122年)から。よってこの辺りにドイツ哲学の出自を求めることは一応できる。事実、エックハルト・タウラー・ゾイゼ・ベーメ、などの思想家の名前がこの時代に連なる(ドイツ神秘思想)。
 とはいえ、ドイツ神秘思想など19世紀の創作だという意見&神秘思想にドイツ精神の源流を求める傾向がナチズムに繋がった、等も考え合わせることも重要である。むしろこの時期のドイツは汎ヨーロッパ的な性格の方が強かった。

 

2 ドイツ哲学の形成
 ではどこにドイツ哲学の出自を求めれば良いのか?
 当時ヨーロッパで覇権を握る神聖ローマ帝国。そのドイツ王国の部分を指して「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになるのが15世紀以降。ここにドイツ哲学の形成開始を見ることもできる。特に『哲学史要綱』ではこの時期のドイツをドイツではなく「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という単位で採用している。
 というわけで、そこで「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」を待ち受けていた宗教改革と、そこに関係深いルターの思想からこの授業は始まる。

 ルターは宗教改革の過程で、それまでのカトリック教会に奉仕していたアリストテレス形而上学を排斥する。教会において自然的認識と神学を行き来させていた形而上学が不要とされたのである。
 とはいえ、その後のプロテスタント圏において形而上学がまったくの無縁であったわけではない。スアレス形而上学の対象を「実在的存在である限りでの存在」と主張し、創造後の「存在」のほうに形而上学の場面を転換している。これはつまり神学とは別の形而上学の胎動を含意する。
 そんなスアレスに親しんだのライプニッツ。彼の思想が順調に後生に伝わったわけでないというところから、ドイツ啓蒙主義の授業に繋がる。

 

3 ドイツ啓蒙主義
 啓蒙の観点から重要なのは、この時期にドイツ語が哲学のための言語として整備され始めたこと。ライプニッツを受け継いだ(と、一応見なされる)ヴォルフが哲学著作をドイツ語で刊行するこの頃、諸学問の用語がラテン語からドイツ語に移す試行錯誤が重ねられた。
 さしあたり重要なのは、啓蒙期ドイツ人にとって「哲学」は神学に対立するものと理解されたこと。故に青年カントが「哲学」の語を使うとき、この意味合いが含まれていることも否定できない。

 


 すげー慎重な授業。石橋を叩いて、叩いて、叩いて……ここは何処? ひたすらこの流れ。
 世界史の知識が完全に頭から抜けているので、神聖ローマ帝国とかカール大帝、とかの名前だけで頭痛が始まる。うう……高校の教科書引っ張り出すしかない……

日本の物語文学 第1章

1 物語とは何か

 真実と虚構が融合したもの。例えば源氏物語は、歴史的事実に準拠しながら虚構を織り交ぜてつくった作品である。また、その意味では作り物語と歌物語は別個のものではない。

 

2 物語は何でないか
(1)神話との比較
 神話は現実世界の「起源」を説明するものである。物語はあくまで虚構。
(2)歴史との比較
 物語が歴史に準拠する点があるのは事実。だが、一度失脚した人物が権力の絶頂に立つことは歴史的にありえないのに、光源氏はそれをやってのける。そこが歴史との違い。なお、紫式部は源氏に「歴史より物語のほうが人間と世界の本質を書き留めている」などと言わせてるらしい。
(3)エッセイとの比較
 エッセイは自らの思想を一人称で書き付けるものであるので、そこには展開性が求められない。そこが物語との違い。

 

3 作者の存在にみる、物語の魅力
 物語は作者の主張を前面には打ち出しにくい、一見遠回りなジャンルである。実際、ほとんどの現存する物語の作者は不詳である。(竹取物語とか?)
 ただ、物語は作者の名前が不要なジャンルでもある。作者が不詳であっても、優れた物語を読めば作者の人間性がわかり、語る内容と語る作者の魅力が合体したときに名作が生まれる。一方で作者の個性が爆発しているのが枕草子徒然草などのエッセイ。

 

 結構とっちらかってた印象。第一回目の授業にはありがちなことだけれど。
 とにもかくにも、源氏物語が古典文学の最高傑作!という前提で話が進むのでどーにもつっかかる。確かに日本の古典物語文学の中ではそうなのだろうけれども……、ダンテの神曲でも思ったが歴史的価値と作品の面白さは凡人にとっては別物なのである。

 物語とはなんであるか。古来の作品を分析するうえでは重要な観点かもしれないが、現代以降はもうナンセンスな気もするなあ。ふらんす物語修善寺物語、次郎物語……いろいろと近代以降の作品名はでてきたけれども、現代以降で、たとえば西尾維新が物語とは○○である! といった思索をもとに化物語を書いたのかな? なんて思ってしまう僕である。もっともそれは「理論が先にあって小説がかかれるのではない」という島内先生の言葉に誤魔化されておこう。