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文学のエコロジー 第2章

 前回見たように、かつての文学は口承芸能であり、音の本領を発揮する演芸の場でこそ真骨頂が見られたのであるが、徐々に文学は「文字」を基盤とする体制へと姿を変えてゆく。

 

1 中世の読書
 中世のキリスト教社会において読書といえば、それは聖なる営み(修行)であった。聖なるテクスト(これは聖書のことでいいのだろうか?)は音読され、耳を通じて心に刻む「味読」が中心だった。(これはマリア様が処女のまま子を授かった、いわゆる耳から妊娠したとかいうやつと通ずる?)
 読書・瞑想・祈り・観想の4つが聖なる読書を構成していた。読むという行為は口の運動と深い関係にあったわでけである。
 「文字」とは「音」の表象であって、あくまでも「音」の方に本質があるという考え方はその後も根強く残ることになる。
 そもそも当時は句読点や英文中のスペースなども一般化していなかったのだから、速読なんてできるはずもなかった。むしろ注意深く一字一字読むことが肝要であり、そうった文章を解きほぐす作業も読むという営みの一つなのであった。

 

2 読書、写本
 この中世の読書における聖なる営みは「読む」ことだけではない。カルトジオ会の隠修士たちは「写す」こともしていた。仏教と写経と似た感じだろうか。聖なるテキストを個室で筆写し、テキストと向き合う。どうやら孤独と沈黙のうちに神と向き合うことが重要であるらしい。場合によっては沈黙を守るために「手話」を重視したところもあるようだ。
 こうした写本は修道院の主な収入源なったらしいから、それは徐々に労働へと姿を変えていったようだけども、筆写には様々な略号が用いられていたらしく、必ずしも読み手を重視したものでなかったことは確かだ。あくまでも生産者重視だった。

 

3 読書・写本の新時代
 そして12世紀。ヨーロッパ各地に大学が出現する。これら中世大学で展開されたのは「スコラ哲学」であり、この担い手は新興の「托鉢修道会」だった。こうなれば聖なる読書は辺鄙な修道院に追いやられ、勉強するということは「英知」を獲得することから「知識」を得る手段へと変わり、その知識で問題を解決したりする実践的な方法へとなっていった。
 読書が聖なる存在との触れ合いにとどまるだけでは、もう時代遅れになったわけである。つまり読書は「区別」「証明」といったテクにより問題の「是非」を問う知的バトルへと変身する。そしてこのことはルネサンス時代のユマニスト等から批判される。
(スコラ哲学があんま良い印象をもたれないのってこの辺が原因なのかね)

 とはいえこうなれば書物の性質も変化する。書物は、声・ロゴスの宿る場所から知の倉庫へと変貌した。
(よく図書館は知の宝庫だ! とかいったりするけど、それ以前はロゴスの宿る場所だったわけなのな)

 

4 黙って読むこと
 その昔、本を読むといえば声に出して読むことが当たり前だった。前述の「味読」「音の方に本質がある」といった考え方から頷けるであろう。当時、黙読とは特殊技能に近かった。文字は音の影であり、音を吹き込んでこそ意味がある、書かれたものを楽譜のように捉える比喩が分かりやすい。
 ところが読書の新時代では黙読が徐々に支配的になっていく(あくまでも徐々に、というのが大切らしい)。法律・司法の場でも、それまでは宣誓証言重視の体制の中に「供述書」が現れたり、遺言状が出てきたりする。音から文字への移行、記憶から記録への転換が起こっていることを物語っている。なお、物語作品についても口承・韻文から散文への書き写しが起こるのもこの頃である。

 

5 活字
 そうなってくると、かつての「生産者重視」だった書物は「消費者重視」の形へと変わっていく。黙読・速読を助けるために視覚的な文節が起こり、注釈注解が増えてオリジナルは遠ざかっていく。とはいえこれも徐々に、らしい。そして生まれる活字本。それまでの写本は、ある意味うわさに近い存在だったが、活字本ともなればかなりの信頼性が寄せられる。このことはモンテーニュのエセーで「ばかばかしい言葉だって、印刷すれば箔がつく」と揶揄されたりしている。

 

 

 時代変化に伴う読書の変容、といった内容の回。こういうのを聞くと真っ先に電子書籍のことが思い浮かぶけど、授業中に先生が再三いうようにこういう変化って「徐々に」なのである。