ドイツ哲学の系譜 第5章

フィヒテシェリング

 

観念論ってのは単純に言えば「われわれが知覚できるものは、われわれ自身の感性と知性に依存している」というものだが、カントは同時に実在論をも主張した。本来その二つは相容れないものなのだが……、一方を「超越論的」観念論として、もう一方と「経験的」実在論として理解すれば両立するとかいう。
 たしか「超越論的」ってのはアプリオリな事柄へのアプリオリな構え、を意味する形容句で、アプリオリってのは<経験を可能にする>といった意味だったから、これは経験の前段階では観念論、経験後は実在論、という解釈でいいのだろうか。絶対違うだろうな。

 

 しかしこんな考え方には「物自体」という概念が前提となっている。物自体はたしか、認識も知覚もされえない何か、みたいな意味だったっけ……。しかし物自体は認識も知覚もされえないと同時に、確かにいまその存在は考えられ知られている。そこに矛盾があることになる(なんかヴィトゲンシュタインみたいだね)

 

 この問題に挑んだフィヒテ。彼は矛盾の存在を受け入れる。
    自我の活動が物自体の不透明な根底によって限界づけられている世界の意味の否定の、決して終結しない無限のプロセスに存していることの証明……自我は自我に対立するこの基礎を取り除き、自我の自由を実現する……それゆえにフィヒテの哲学は倫理的ないしは実践的観念論である……

 とにかく教科書に書いてあることをなぞれば何か閃くかと思ったけどなにも起きなかった……全然意味分からんです。考え方の根拠として論理学的な何かが飛び出したけど省略。とりえあえずフィヒテは物自体を受け入れてしまったために解決が先送りにされる、ということだけ押さえておこう。そうしよう。

 

 続いてのシェリング。彼は矛盾は存在しない、という考え方。ではどういう訳で?
 全宇宙の無限の生産性は、同時にそこにある停滞的傾向によって有限な産物を生産する。このとき宇宙は低次の段階から次第に高次の段階へと発展する系列を形作る有機的組織となる。この段階がポテンツと言われる。
 なんかすごい言葉でてきたー! ポテンツ! ポテンツ!(これたぶん、potentialの関連語だよね)
 結局意味は分かりません。最終的に彼は「芸術作品ならば思惟と存在の同一化を獲得できる!」的な見解で芸術哲学を押し進めるわけだけどーーそしてシェリングのどこに矛盾があるのかさっぱりだけどーー彼は新プラトン主義への回帰と見なされてしまう。これらの解決にはへーゲルの登場を待たねばならないことになる。

 

 

もう許してください……
そもそもカントの哲学には「物自体」が前提になってるなんて、今まで三回の講義では全然知る由がなかったぜ。そしてその由がどこにあるのかと自力で探ってみても時間が消えていくだけでもう嫌です。