ドイツ哲学の系譜 第4章

判断力批判


 そもそもなぜカントは三批判書を書いたのかさえおぼつかないのだけど、その中でもこの『判断力批判』はなぜ書かれたのか特に分からない。
純粋理性批判』ではアプリオリな綜合判断は如何にして可能かが説かれて、そこで二律背反に終わった問題が『実践理性批判』の中では定言命法を絡ませて解決する……みたいなイメージで(たぶん正しい理解とは相当離れてるだろうが)、一応得心いってるのだけど、この『判断力批判』は本当に分からん。なんで理性とか悟性とか認識とか超越論的弁証論とか言ってた人が急に「趣味」について語り出すわけ。美とか崇高とかがさっきまで語ってた内容となんの関係があるわけ!

 

 前期に履修した『近代哲学の人間像』だと、この『判断力批判』は巻末の方で次々と新しい概念が登場してひどい混乱を招く、みたいなけっこうマイナス評論だったのだけど、この『ドイツ哲学の系譜』ではそういうニュアンスではない。むしろ三批判書の一つの頂点をなす、とか書いてある。

 なぜ?

 どうやら『判断力批判』で登場する「共通感能」(哲学用語って一発変換できねえなあ!)がアプリオリな綜合判断の問題を解決させてしまうかららしい。ふむふむ。
 あとは、この「共通感能」にまつわるテーマが批判哲学の根本動機である「啓蒙」、それもその「困難さ」であるからだとか。これはちょっと意味わかりませんね。

 

「共通感能」ってのは確か美とか崇高とかを語るあたりで出てきたカントの用語だ。
「共通感能」=「可能な認識一般に必要なもの」「それは認識判断一般においても意義を有する」「もっぱら感情のみに関わるのではない」くぅ〜、意味わかんねえ。

「認識判断一般」って言葉もどっかに出てきた気がする。うそ。探したけど見つからなかった。哲学用語はこんな感じで、専門用語なのか、ただの熟語の組み合わせなのか、ぱっと見ではさっぱり見分けがつかない。

 

 とにかく。


 この「共通感能」は「趣味判断」の十分条件であるようだ。ここで趣味が登場するわけだな。

「趣味判断」は「万人に賛同をあえて求める」「共通感能があるという前提のみで下される」

 富士山を見て「この山は美しい」とか言うのが「趣味判断」にあたる。

 出たよ! 哲学あるある「○○を見て××」系の比喩! この花を見るとき、花と私の関係は純粋に××である、みたいな説明よく見るよね。これ分かるようで全然わかんねえんだよな。

 

 文句ばっか言ってられないのでがんばろう。


 とにかく客観的な知識を記述するのではない「この山は美しい」には、たとえ山の名前を知らなくても判断を下せるし、そこには普遍性が認められる。それは利害関心を離れてさえ、私たちが満足を覚える評価判定だからである。つまり趣味判断はアプリオリな綜合判断だってことですよね先生! ここが違ったらもう知らん!

 お、ここまで分かれば話は早いじゃん。この趣味判断は
「共通感能があるという前提のみで下される」のだし、共通感能は「もっぱら感情のみに関わるのではない」し、「それは認識判断一般においても意義を有する」わけでしょ?

 そして共通感能を具体化する三箇条は
(1)自分で考えること
(2)他のあらゆる人の立場で考えること
(3)いつも自分自身と一致して、つまり首尾一貫して考えること
 なわけで。
 ここに認識批判と、ひいては理性批判を核とする批判哲学の根底があるというわけです。

 

 

 よかったね! これで『純粋理性批判』から始まった謎が解かれたじゃないか! あーでもどうせこの解釈ぜんぜん違うんだろうなー! カント哲学がこんな単純な話なわけないしなー! だけどもう無理です! これ以上は分かりません! もう本当に分かりません!