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ドイツ哲学の系譜 第3章

実践理性批判』とその前後『基礎づけ』と『永遠平和のために』について


 一文たりとも理解できないカントの中でも唯一理解できそうな『実践理性批判』。その理由はといえば、定言命法の部分が意外にすっきりした形をとっているからだろう。
 カントは、他の目的を実現するための行為(〜したいなら、〜せよ・仮言命法)ではなく、行為以外の目的をもたない行為(〜せよ・定言命法)を強く打ち出す。
 ではそれはなぜ? と考えるとぜんぜん分からない。その方がシンプルだからとか欲がなくて純粋だからとか、分かりやすくてテキトーな理由が用意されてれば楽だけどぜんぜんそんなことはない。


 カント曰く、定言命法は「人間にとっての行為規範を示すアプリオリな道徳の法則」を与えるのであり、「義務に基づいて意志するとき『意志の自律』が実現しており、行為主体は『自由』である」という。なるほど分からん。

実践理性批判』には「道徳」という言葉が頻出するが、この「道徳」を小学校で習う優しげなノートの表紙に書いてある言葉程度に捉えているといつまでもカントが偏屈爺に見えるところから進まない。
 おまえにとって「道徳」ってなんなんだよ。と思ったら「道徳とは、行為に関して諸原理からまったくアプリオリに導き出すことができる、唯一の合法則性である」って書いてあった。なるほど分からん。

 

  『純粋理性批判』でアポリア風に終わった二律背反の問題(自由は存在するのか・しないのか、的な)が解決しちゃうのも『実践理性批判』の特徴だよね。
 そのわけは、感性界と叡智界に反立と定立を割り振ることによるわけだけど、これって僕には感性界では不可能なことも叡智界ならなんでもありだから問題ないんだよって言ってるように聞こえるのだけど、そういうことでいいの? そんななげやりな答えでいいの?

 

 そこまで行くと、次の問題は「人間の自由はいかにして実現するのか」という問題であるらしい。(この問題解決してなかったんですね)。ちなみにそれは「意志の自律によってである」そうです。意志の自律ってなんだ。そもそも意志ってなんだ。


 ああ、ここでさっきの定言命法に繋がるのか。義務に基づいて、みずからの定言命法にしたがって行為を意志するとき「意志の自律」が実現しており、行為主体は「自由」である、らしい。要は定言命法の方が自由だってことだな!