感想『ドイツ哲学の系譜』

 この科目の扉を開いたが最後、必ずや君は未知なる世界へと足を踏み入れ、そしてすごすごと引き返してくることだろう。

 むっずい。クソむっずい。
 今期ボスは間違いなくこの科目である。「ドイツ哲学ってちょっとおもしろそ〜」くらいの動機の奴。Welcome to inferno.

 この科目を一言で言い表せばこんな感じだ。

 受講前「ドイツ哲学って観念論でしょ」
 受講後「ドイツ哲学……? 観念論……?」

 まさに無知を知るにはふさわしい科目。
 要は意味不明ってことだ!

 面接授業で会った人に「わたし芸術の分野興味あるからドイツ哲学もやってみたいんですよね〜」と言われて僕は苦笑いすることしかできなかった。

 ショーペンハウアーニーチェを担当する湯浅先生だけが理解できる難易度で話してくれる(それでも易しくはない)。ニーチェのいうニヒリズムの意味や、永遠回帰説について咀嚼できたのはうれしい。

 教科書の難しさは『西洋哲学の誕生』に匹敵。『西洋〜』はヘブライズム以降が地獄だったが、『ドイツ〜』は湯浅先生をのぞく3人の分担講師、計10章が地獄といっていいだろう。
 正直ぼくは山田先生のヘブンリイな言語(婉曲)にすっかり打ちのめされて哲学する自信を失っております。終盤には教科書ひらくだけで拒否反応でるようになってた。

 ってか最終章のシンポジウムで佐藤先生がひたすら苦笑してたのが忘れられない。アンタに分からなかったら俺らにも分からんわ!!


 試験は教科書・ノート・国語辞典が持込み可。
 過去問の使回しなし。テキストにそのまんま書いてあるような問題なし。意味をかみ砕いて理解しないと選べない選択肢たち。講師陣やる気ありすぎである。良い問題です……
 択一式だけど30分退席するには相当教科書を読み込んでおかないと厳しいのではないか(この教科書を読み込むのがそもそも厳しいという問題もある)。僕のセンターも10人くらい受験してたけど、途中退室したのは1人だけだった気がする。というか下手したら時間切れもあり得る。「残り5分です」と言われたとき、「ああ……」と絶望の声を漏らしたおじさんがいた。

 国語辞典は僕は用意しませんでした。持ってないしどうせ電子辞書はダメって言われると思ったし。許可物品に載ってる理由がいまいちわからない。使われる単語が難しいからかな。でも哲学用語なんて国語辞書に載ってないことが多いし、引く暇があるなら教科書の索引さがしたほうがはやいと思う。

 哲学専攻を意欲する人なら避けては通れない科目。カントの『純粋理性批判』をすらすら読めたら天才、というのを聞いたことがあるけれど、この教科書もまあそんなところだろう。君の潜在能力が問われる。

感想『心理臨床の基礎』

 臨床心理学を学び続けるコア科目。
 フロイトユング・ロジャーズ……主要な心理臨床家に一通りふれられるし、認知行動療法や遊戯療法の回もある。ライフサイクルの講義も序盤に控えてるので、エリクソンとか興味ある人もおすすめ。

 難点はひたすら理詰めなこと。つまり実践がイメージしにくい。『教育と心理を学ぶために』の座学感と非常に似ている。『臨床心理学実習』の面接授業をあわせて取ると良いと思う。僕はそうしました。
 実習型の面接授業ってどうしても「先に知識を入れとかないとついていけないんじゃ……」って不安がつきものだけど、臨床心理学においてはまず実践やっちゃう方が早いんじゃないかな。もともと実践から生まれた学問ですし。

 試験は持込み不可。
 相変わらず心理検査の章から暗記系問題が一題は出る。
(例)○○に用いる心理検査はどれか
  ① AA法
  ② BB法
  ③ CC法
 みたいなやつ……
 そのほか、認知行動療法からも似たような出題があり、エリクソンの各段階の課題も覚えてないと落としたりするので、試験直前は2・7・8・12章あたりの重点的な見直しをおすすめしたい。

 小野先生の授業冒頭の「おのけいこです。」にはなかなかのヒーリング効果がある。あと越川先生はSっぽいしゃべり方するので少し怖い。本当にもう絶望的ですよ。

感想『日本の物語文学』

    この科目でいう「物語文学」とはつまり「〇〇物語」と名のつく文学たちであり、つまりは「竹取物語」や「源氏物語」のことである。近代文学をやりたい人は回れ右。最終章もなぜか樋口一葉で締めくくられる。

    島内裕子先生が主かと思いきや、前半を取り仕切るのはなんと旦那の島内さん。夫婦で日本古典研究者とは…

 

    別に難しくはないのだけど、全編通していまいちパッとしない印象なのは僕が日本古典に興味がなさすぎるから。

 

    2〜9章 竹取物語〜後期物語

    島内景二先生
    話型や如意宝といった概念が出てきてそれなりに新鮮だが、教科書に書いてあることが文学者たちの共通見識というよりは先生の個人的な思想な気がするのが辛い。

 

    10〜11章 擬古物語御伽草子
    島内裕子先生
    擬古物語は、すみません何も覚えてません…
いやでもこれは毎回毎回、浸透・蓄積・抽出化で話をまとめようとする島内先生が悪いと思います……。日本文学概論やった身としては食傷気味。

 

    12〜14章
    仮名草子〜後期読本
    佐藤至子先生
    名前は聞くけど区別はできない仮名草子浮世草子が学べてうれしい。が、筆者や作品名はぜんぜん頭に入らず(ましてや暗記なんて無理無理)、試験はテキスト頼り。作品たちが現代に近づくにつれだんだんと俗性をおびてくるのはじわじわ面白い。八犬伝ってこんな漫画っぽい設定だったんですね。

 

 

    最初から最後まで主軸にあるのは源氏物語なので、まあそういうものだと受け止めざるをえない。

    すごい今更だけど、大学の講義なのだから学ぶのは時代背景や歴史的意義なのであって、作品そのものの楽しさを確かめたいなら実際に読むのが一番正しくて手っ取り早いなと思った。

    試験対策は特になし。過去問やっておけば恐るるに足らず。

心理臨床の基礎 第6章

深層心理学理論

 

    フロイトが無意識を発見したというのはさんざん習ったことだけれども、今回は意外とまだ習ってなかった「エス・自我・超自我」が登場。

 

【エス】
無意識の奥底にあるもの。主として性的なもの(ザ・フロイト!)本能的エネルギーの源泉。サドのことではない。

 

【自我(エゴ)】
欲求充足のため現実的な手段を取り入れて形成されるもの。中間管理職的な。日常でつかう言葉の意味とはだいぶ違う気がするなあ。

 

超自我(スーパーエゴ)】
スーパーエゴ! すげえわがままな人みたい。エスの表出や自我の働きを管理。監査役的な。

正直よくわからん。


    このエス、超自我、現実世界を自我が調整して不安や深いから心を守るときに起こるのが、心理学でよくいう抑圧とか投影とかになる、と。

 

    ユングは心的内容が同一の感情によってまとまりを持っていることを発見。この心的内容の集まりを「コンプレックス」と呼ぶ。

    日常の場面で使われるコンプレックスは「劣等コンプレックス」の意であって、コンプレックスはそれ以外にも「心のしこり」とか「心の渦」のことを指したりする。

 

    無意識の領域を想定して人格を理解しようとする点で、フロイトユングは共通してる。

   

    二人は相違点は。
    フロイトが無意識を個人レベルの体験や欲動からなると考えたのに対し、ユングは無意識の中にも共通する普遍的なものがあると見いだした。これはユングフロイトの理論では解決できない統合失調症系の患者を多く相手にしたことによる。

ドイツ哲学の系譜 第6章

へーゲル突入

 

さて前章ではカントの「物自体」を否定しようとして失敗したフィヒテシェリングを見たわけであるが、今回はこの問題を解決させたへーゲルへと進む。さあどうやって解決したのか教えてもらおうじゃないか!

 

へーゲルによれば、

 絶対者は主観と客観、意識的「精神」と「自然」として存在する絶対的本質である

    まずこの「絶対者」ってのが分かんねえんだよな。物自体のことでいいの? でもどうやら違うらしい。「絶対者」って哲学でよく使われる単語だけど意味がはっきり分かった試しがない(どうせ「神」的な意味だろ!)のでちゃんと押さえたい。

    教科書内ではシェリングあたりから出てきた言葉である(絶対者)。どうやら物自体が除去されるならば、意識的自我への循環の出発点は絶対者となるらしい。絶対者は主観と客観に共通の根元であり、両者の絶対的同一性として宇宙と歴史において実現されていく。ここで宇宙の無限の生産性はそこにある停滞的な傾向によって有限な有機体を産出する。この段階がポテンツ! ポテンツ!


    どうせ分からないからこれくらいでやめておこう。

 

    で? なんだっけ。ああそう、へーゲル。絶対者は絶対的本質である? だからなんだよ。

    へーゲルは絶対的本質を「理念(イデー)」と呼ぶ。プラトンイデア的なそれだがプラトンと異なるのは、理念が普遍的なものであり、自然、人間からなる現在的な世界そのものとして存在すること。要はシェリングがこの絶対的なものをスピノザ主義的な方向へいってしまったのを、へーゲルは「主体」として捉えて自己内に引き寄せる。

   

    ほんと哲学者は好き勝手いうよな。

 

 理念は自己産出的な運動そのものである。したがって理念はカテゴリー体系としてあらゆる運動の根幹である。

 

    なんかモナド論と同じ電波を感じる。

 

    もうよくわかんねえや。さっさと次いこう。へーゲルでよく出てくる「弁証法」について。へーゲル的にはカテゴリー体系は演繹されなければならない。

    ざっくりまとめておこう。弁証法のトリアーデ。


①抽象的、悟性的局面
弁証法的、否定的理性的局面
③思弁的、肯定的理性的局面

 

    一番たいせつなとこ的だけど深く分け入る気力的なものが湧かない的な……どうせ分かんないし……的な。

 

    さらにポイントとなるのが「反照」という概念。
    自己同一的で反対と異なるためには規定は反対と統一ないし関係させられなければならない、とかよく分かんないことが書いてあるが、このあたりの規定が「反照」らしい。

    他者の否定は自らの崩壊をもたらす。ゆえの各々が他者との関係において自己自身であることが明らかになる。
    うお、一気にへーゲルらしくなったな。へーゲルこういうことよく言うよね。意味は分からんけど。

    この反照原理、どうやら数学のフラクタルをイメージすると良いようだ。ふむ……。人間は反照規定の集約体。最終的には話が国家や自由に行き着くところもへーゲルらしい。意味は分からんけど!  はいはい人倫ね!的な!

 

 

独学の限界を感じる。
一章で20Pくらい進むけど、一文たりとも意味が理解できない。間違いなく今期科目で一番しんどい。いままでやった科目中でも、純粋なテキストの難解さならトップかも。こいつの勉強するのが最近はすげー憂鬱。

文学のエコロジー 第5章

著作権前史

 

    活版印刷が始まると商売気も強くなるし、著作物と著作者がつよく結びつくようになる(口承文芸が写本のような代々語り継がれていくような形態でなくなる)。となると、問題になるのは著作権。むかしは著作権なんてものはないから海賊版や贋作も当然のようにあった。

 

 当時、15世紀ヨーロッパあたりで著作権の代わりになっていたのが「特認」。時の権力者に"海賊版出すの禁止してくれー"って頼むもの。全書物に適用されるわけではなく、個別に「特認」をもらう必要があり、保護される年数も物によって異なっていたようだ。
 また、権利の大元が著作者にではなく、出版側に帰せられていたのも特徴。当時、特に貴族社会での作者が求めるものといえば「名声」なので、権利意識には無頓着な人も多かった。

 

 そんな中で18世紀には手紙の内容を刊行されたことで著作権を争う裁判が起きる。結果的に訴訟側の訴えが認められる形になり(手紙は紙の所有権はわたるが内容の刊行を認めることにはならないという理屈)、テクストが物質から飛び立ったともいえる。

    この点、日本では20世紀になっても争われてるあたり(剣と寒紅事件)、ヨーロッパに比べればかなり遅れている。

日本の物語文学 第5章

前期物語の試み

 

 ざっくり言えば、源氏物語に至るまでの諸物語の画期性と失敗、といった内容。
 文学は基本的に過去の名作を踏襲し、しかし少しずつ形を変えて続いていくものだから源氏物語がそれ以前の作品から取り入れている要素が多いのは当然。しかしこの授業は源氏物語がそれ以前の諸物語を昇華して成立したという点をかなり強調する。

 

【うつほ物語】
 長編ジャンルを切り開いた点が画期的。
 また芸術をテーマとした話が多いのも意義深い。
 しかし長編性が混乱を招き、話も単調。
 源氏物語はうつほ物語の長編化テクに加えて、評論という要素を新たに加えている。

 

【大和物語】
 これは伊勢物語と対比される。
 伊勢物語が業平の一代記なのに対し、大和物語に統一感はなし。
 歌を物語の中で感動的に浮かび上がらせることに成功。

 

落窪物語
 「継子譚」の原点。しかし話型がありがち。
 めでたしめでたしで終わっており、そこがシビアな源氏物語と対比される。
 また人間の思いやり、気遣いが必ずしも幸福な結果を生まないという点でも源氏物語に軍配があがる。

 

 

 とにかく源氏物語ヨイショだなあ。ここまでされると嫌気を通り越して、読んでおかないと授業を受ける資格もないような気がしてくるぜ。谷崎潤一郎って源氏の訳つくってるんだっけ。と思って調べたらもう青空文庫に出とる。ああでも、いきなり現代語訳にとびつくと先生に怒られそうだなあ……