ドイツ哲学の系譜 第6章
へーゲル突入
さて前章ではカントの「物自体」を否定しようとして失敗したフィヒテとシェリングを見たわけであるが、今回はこの問題を解決させたへーゲルへと進む。さあどうやって解決したのか教えてもらおうじゃないか!
へーゲルによれば、
絶対者は主観と客観、意識的「精神」と「自然」として存在する絶対的本質である
まずこの「絶対者」ってのが分かんねえんだよな。物自体のことでいいの? でもどうやら違うらしい。「絶対者」って哲学でよく使われる単語だけど意味がはっきり分かった試しがない(どうせ「神」的な意味だろ!)のでちゃんと押さえたい。
教科書内ではシェリングあたりから出てきた言葉である(絶対者)。どうやら物自体が除去されるならば、意識的自我への循環の出発点は絶対者となるらしい。絶対者は主観と客観に共通の根元であり、両者の絶対的同一性として宇宙と歴史において実現されていく。ここで宇宙の無限の生産性はそこにある停滞的な傾向によって有限な有機体を産出する。この段階がポテンツ! ポテンツ!
どうせ分からないからこれくらいでやめておこう。
で? なんだっけ。ああそう、へーゲル。絶対者は絶対的本質である? だからなんだよ。
へーゲルは絶対的本質を「理念(イデー)」と呼ぶ。プラトンのイデア的なそれだがプラトンと異なるのは、理念が普遍的なものであり、自然、人間からなる現在的な世界そのものとして存在すること。要はシェリングがこの絶対的なものをスピノザ主義的な方向へいってしまったのを、へーゲルは「主体」として捉えて自己内に引き寄せる。
ほんと哲学者は好き勝手いうよな。
理念は自己産出的な運動そのものである。したがって理念はカテゴリー体系としてあらゆる運動の根幹である。
なんかモナド論と同じ電波を感じる。
もうよくわかんねえや。さっさと次いこう。へーゲルでよく出てくる「弁証法」について。へーゲル的にはカテゴリー体系は演繹されなければならない。
ざっくりまとめておこう。弁証法のトリアーデ。
①抽象的、悟性的局面
②弁証法的、否定的理性的局面
③思弁的、肯定的理性的局面
一番たいせつなとこ的だけど深く分け入る気力的なものが湧かない的な……どうせ分かんないし……的な。
さらにポイントとなるのが「反照」という概念。
自己同一的で反対と異なるためには規定は反対と統一ないし関係させられなければならない、とかよく分かんないことが書いてあるが、このあたりの規定が「反照」らしい。
他者の否定は自らの崩壊をもたらす。ゆえの各々が他者との関係において自己自身であることが明らかになる。
うお、一気にへーゲルらしくなったな。へーゲルこういうことよく言うよね。意味は分からんけど。
この反照原理、どうやら数学のフラクタルをイメージすると良いようだ。ふむ……。人間は反照規定の集約体。最終的には話が国家や自由に行き着くところもへーゲルらしい。意味は分からんけど! はいはい人倫ね!的な!
★
独学の限界を感じる。
一章で20Pくらい進むけど、一文たりとも意味が理解できない。間違いなく今期科目で一番しんどい。いままでやった科目中でも、純粋なテキストの難解さならトップかも。こいつの勉強するのが最近はすげー憂鬱。
文学のエコロジー 第5章
著作権前史
活版印刷が始まると商売気も強くなるし、著作物と著作者がつよく結びつくようになる(口承文芸が写本のような代々語り継がれていくような形態でなくなる)。となると、問題になるのは著作権。むかしは著作権なんてものはないから海賊版や贋作も当然のようにあった。
当時、15世紀ヨーロッパあたりで著作権の代わりになっていたのが「特認」。時の権力者に"海賊版出すの禁止してくれー"って頼むもの。全書物に適用されるわけではなく、個別に「特認」をもらう必要があり、保護される年数も物によって異なっていたようだ。
また、権利の大元が著作者にではなく、出版側に帰せられていたのも特徴。当時、特に貴族社会での作者が求めるものといえば「名声」なので、権利意識には無頓着な人も多かった。
そんな中で18世紀には手紙の内容を刊行されたことで著作権を争う裁判が起きる。結果的に訴訟側の訴えが認められる形になり(手紙は紙の所有権はわたるが内容の刊行を認めることにはならないという理屈)、テクストが物質から飛び立ったともいえる。
この点、日本では20世紀になっても争われてるあたり(剣と寒紅事件)、ヨーロッパに比べればかなり遅れている。
日本の物語文学 第5章
前期物語の試み
ざっくり言えば、源氏物語に至るまでの諸物語の画期性と失敗、といった内容。
文学は基本的に過去の名作を踏襲し、しかし少しずつ形を変えて続いていくものだから源氏物語がそれ以前の作品から取り入れている要素が多いのは当然。しかしこの授業は源氏物語がそれ以前の諸物語を昇華して成立したという点をかなり強調する。
【うつほ物語】
長編ジャンルを切り開いた点が画期的。
また芸術をテーマとした話が多いのも意義深い。
しかし長編性が混乱を招き、話も単調。
源氏物語はうつほ物語の長編化テクに加えて、評論という要素を新たに加えている。
【大和物語】
これは伊勢物語と対比される。
伊勢物語が業平の一代記なのに対し、大和物語に統一感はなし。
歌を物語の中で感動的に浮かび上がらせることに成功。
【落窪物語】
「継子譚」の原点。しかし話型がありがち。
めでたしめでたしで終わっており、そこがシビアな源氏物語と対比される。
また人間の思いやり、気遣いが必ずしも幸福な結果を生まないという点でも源氏物語に軍配があがる。
★
とにかく源氏物語ヨイショだなあ。ここまでされると嫌気を通り越して、読んでおかないと授業を受ける資格もないような気がしてくるぜ。谷崎潤一郎って源氏の訳つくってるんだっけ。と思って調べたらもう青空文庫に出とる。ああでも、いきなり現代語訳にとびつくと先生に怒られそうだなあ……
心理臨床の基礎 第5章
学習理論・認知理論
学習理論は心理学のなかでも特に楽しい部分だよね。パブロフの犬とか。そして放送大学に入学してから「教育と心理の巨人たち」→「心理と教育を学ぶために」→「心理学概論」と何度も刷り込まれたのでいい加減におぼえました。まだ負の強化のイメージが難しいのだけれど。
レスポンデント条件付けとオペラント条件付けの違いがようやく分かってきた気がします。
レスポンデントは生得的な行動に条件刺激が対提示されて行動が学習されること。
オペラントはある行動に強化子が影響して行動の頻度の影響がでること。
対の理論ってわけじゃないんだよね。同じことを説明してる部分もあれば違ったアプローチの部分もある。
般化とか分化とか、日常生活にあてはめてみると何かにつけ学習理論に沿った生活変化が行われていることに、おもしろさを感じると同時にぼやんと怖くなる。
この般化・分化・正の強化・負の強化・消去を効果的に使いわけて生きられたらおもしろいだろう。
ドイツ哲学の系譜 第5章
観念論ってのは単純に言えば「われわれが知覚できるものは、われわれ自身の感性と知性に依存している」というものだが、カントは同時に実在論をも主張した。本来その二つは相容れないものなのだが……、一方を「超越論的」観念論として、もう一方と「経験的」実在論として理解すれば両立するとかいう。
たしか「超越論的」ってのはアプリオリな事柄へのアプリオリな構え、を意味する形容句で、アプリオリってのは<経験を可能にする>といった意味だったから、これは経験の前段階では観念論、経験後は実在論、という解釈でいいのだろうか。絶対違うだろうな。
しかしこんな考え方には「物自体」という概念が前提となっている。物自体はたしか、認識も知覚もされえない何か、みたいな意味だったっけ……。しかし物自体は認識も知覚もされえないと同時に、確かにいまその存在は考えられ知られている。そこに矛盾があることになる(なんかヴィトゲンシュタインみたいだね)
この問題に挑んだフィヒテ。彼は矛盾の存在を受け入れる。
自我の活動が物自体の不透明な根底によって限界づけられている世界の意味の否定の、決して終結しない無限のプロセスに存していることの証明……自我は自我に対立するこの基礎を取り除き、自我の自由を実現する……それゆえにフィヒテの哲学は倫理的ないしは実践的観念論である……
とにかく教科書に書いてあることをなぞれば何か閃くかと思ったけどなにも起きなかった……全然意味分からんです。考え方の根拠として論理学的な何かが飛び出したけど省略。とりえあえずフィヒテは物自体を受け入れてしまったために解決が先送りにされる、ということだけ押さえておこう。そうしよう。
続いてのシェリング。彼は矛盾は存在しない、という考え方。ではどういう訳で?
全宇宙の無限の生産性は、同時にそこにある停滞的傾向によって有限な産物を生産する。このとき宇宙は低次の段階から次第に高次の段階へと発展する系列を形作る有機的組織となる。この段階がポテンツと言われる。
なんかすごい言葉でてきたー! ポテンツ! ポテンツ!(これたぶん、potentialの関連語だよね)
結局意味は分かりません。最終的に彼は「芸術作品ならば思惟と存在の同一化を獲得できる!」的な見解で芸術哲学を押し進めるわけだけどーーそしてシェリングのどこに矛盾があるのかさっぱりだけどーー彼は新プラトン主義への回帰と見なされてしまう。これらの解決にはへーゲルの登場を待たねばならないことになる。
★
もう許してください……
そもそもカントの哲学には「物自体」が前提になってるなんて、今まで三回の講義では全然知る由がなかったぜ。そしてその由がどこにあるのかと自力で探ってみても時間が消えていくだけでもう嫌です。
文学のエコロジー 第3章
中世文学とパトロン
パトロンといえばルネサンス期のメディチ家が思い浮かぶが、もちろんそれ以外にもパトロンは存在した。今回はパトロンがどう中世文学を支えていたのか、というお話。
前章までの話からも分かるように、このころの文学とは写本が中心であって現代のような大量印刷、何万部! なんてことは起こりえない。むろん著作権も印税もない時代である。むしろ当時は特定の人間に宛てて詩を書いたり製本したりする方が自然で、その「特定の人間」がパトロンに当たるわけである。要は王様が子どもを授かった折にそれを祝う詩を書いてお金をもらったりした。こういうのを「状況の詩」と教科書は呼んでいる。
つーわけで中世詩人というはお金持ちにすり寄らなければ生けていけない動物だったわけである。時には貧乏な自分をネタに、その悲惨さや滑稽さを誇張した詩で金品に預かる。(完全に太宰はこのころの詩人をインスパイアしてるな)
そんな詩人の筆頭にあげられるは、やはりフランソワ・ヴィヨン。彼は詩の力を駆使して金品要求・恩赦嘆願・禁錮釈放、やりたい放題であった。が、この辺はまとめても教科書の引用にしかならないので省略。
★
文字の力、とりわけ詩の力というが当時どれだけ強大だったかがよく分かる内容。今回ボブ・ディランが受賞したときも思ったけど、詩っていうのは歴史的にみると小説のだいぶ先輩にあたるんだよね。むしろ当時の音楽と言った方がいいんだろうな。バラードの形式とか、歌のAメロ、Bメロ、みたいな感じだし。
日本の物語文学 第4章
伊勢物語2
前回は伊勢物語の「愛」が焦点だったが、本章は「旅」にフィーチャー。
物語のよくある話型に『貴種流離譚』というのがあるそう。高貴な血筋の主人公が不運な事故・陰謀などで放浪の身となり、旅先で出会った人々を救ったり悪党を退治したりして、そこで豊かに暮らす、或いは元の居場所に戻る。というタイプの話。伊勢物語で業平が東下りをするのとか、光源氏が一時的に須磨・明石流離するのとかがそう。スサノオが高天原を追放され出雲でヤマタノオロチを退治するのもこの話型だし、義経もこれらしい(そういえば、こんなとこきとうはなかった!って清史郎くん叫んでた)。もっともこの二人は、ラストは不遇な死に終わるけれども。
いろいろ考えたけど、もののけ姫のアシタカもぴったりこの話型ですね。
まあこんな感じでいったん如意宝を手放しつつも、さらに良い如意宝を手にして輝くのが英雄のライフスタイルである、というお話。
業平は情事のために都を立つことになる(自業自得じゃねーか)。この際、同じ『貴種流離譚』でも、自発的に旅立つのと強制的に旅立たせられるのと、二つのパターンがある。業平の場合は後者の感じが強いが、都に居られないから東に行くぜ! という勢いには自発的な気持ちが感じられなくもない。
そして旅の途中、愛知県の三河あたりで詠んだのがこの歌。
唐衣着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ
この歌はちょっとすげえな!
「かきつはた」という五文字を頭に据えてあるだけでなく、「衣・着る系」の言葉と「妻・旅」とか奥さんを残して旅に来ている系の言葉が掛けまくられている超絶技巧歌。そして愛知出身の友達にこの話題を振ったらふつうに知ってて余計びびる。これ、学校で習ったかなあ?
隅田川で詠んだ方の句は
名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人は有りや無しやと
これも有名な歌。旅先でもそう簡単にちょろい女が現れないのは伊勢物語が峻厳な世界認識を持っているからだとかなんとか。三七三三人の女と遊んどいてよく言うよな。
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まあでも、よくある好色男系の話かと思いきや、かきつばたの歌でがらっと印象かわったなー。そりゃ名作になりますね。伊勢物語は源氏物語と違って「給う」の尊敬語が少ないので読みやすいんだって。まあ気が向いたら読んでみよう。東下りの部分くらいは。