心理臨床の基礎 第5章

学習理論・認知理論

 

 学習理論は心理学のなかでも特に楽しい部分だよね。パブロフの犬とか。そして放送大学に入学してから「教育と心理の巨人たち」→「心理と教育を学ぶために」→「心理学概論」と何度も刷り込まれたのでいい加減におぼえました。まだ負の強化のイメージが難しいのだけれど。

 

 レスポンデント条件付けとオペラント条件付けの違いがようやく分かってきた気がします。
 レスポンデントは生得的な行動に条件刺激が対提示されて行動が学習されること。
 オペラントはある行動に強化子が影響して行動の頻度の影響がでること。
 対の理論ってわけじゃないんだよね。同じことを説明してる部分もあれば違ったアプローチの部分もある。

 

 般化とか分化とか、日常生活にあてはめてみると何かにつけ学習理論に沿った生活変化が行われていることに、おもしろさを感じると同時にぼやんと怖くなる。

 この般化・分化・正の強化・負の強化・消去を効果的に使いわけて生きられたらおもしろいだろう。

ドイツ哲学の系譜 第5章

フィヒテシェリング

 

観念論ってのは単純に言えば「われわれが知覚できるものは、われわれ自身の感性と知性に依存している」というものだが、カントは同時に実在論をも主張した。本来その二つは相容れないものなのだが……、一方を「超越論的」観念論として、もう一方と「経験的」実在論として理解すれば両立するとかいう。
 たしか「超越論的」ってのはアプリオリな事柄へのアプリオリな構え、を意味する形容句で、アプリオリってのは<経験を可能にする>といった意味だったから、これは経験の前段階では観念論、経験後は実在論、という解釈でいいのだろうか。絶対違うだろうな。

 

 しかしこんな考え方には「物自体」という概念が前提となっている。物自体はたしか、認識も知覚もされえない何か、みたいな意味だったっけ……。しかし物自体は認識も知覚もされえないと同時に、確かにいまその存在は考えられ知られている。そこに矛盾があることになる(なんかヴィトゲンシュタインみたいだね)

 

 この問題に挑んだフィヒテ。彼は矛盾の存在を受け入れる。
    自我の活動が物自体の不透明な根底によって限界づけられている世界の意味の否定の、決して終結しない無限のプロセスに存していることの証明……自我は自我に対立するこの基礎を取り除き、自我の自由を実現する……それゆえにフィヒテの哲学は倫理的ないしは実践的観念論である……

 とにかく教科書に書いてあることをなぞれば何か閃くかと思ったけどなにも起きなかった……全然意味分からんです。考え方の根拠として論理学的な何かが飛び出したけど省略。とりえあえずフィヒテは物自体を受け入れてしまったために解決が先送りにされる、ということだけ押さえておこう。そうしよう。

 

 続いてのシェリング。彼は矛盾は存在しない、という考え方。ではどういう訳で?
 全宇宙の無限の生産性は、同時にそこにある停滞的傾向によって有限な産物を生産する。このとき宇宙は低次の段階から次第に高次の段階へと発展する系列を形作る有機的組織となる。この段階がポテンツと言われる。
 なんかすごい言葉でてきたー! ポテンツ! ポテンツ!(これたぶん、potentialの関連語だよね)
 結局意味は分かりません。最終的に彼は「芸術作品ならば思惟と存在の同一化を獲得できる!」的な見解で芸術哲学を押し進めるわけだけどーーそしてシェリングのどこに矛盾があるのかさっぱりだけどーー彼は新プラトン主義への回帰と見なされてしまう。これらの解決にはへーゲルの登場を待たねばならないことになる。

 

 

もう許してください……
そもそもカントの哲学には「物自体」が前提になってるなんて、今まで三回の講義では全然知る由がなかったぜ。そしてその由がどこにあるのかと自力で探ってみても時間が消えていくだけでもう嫌です。

文学のエコロジー 第3章

中世文学とパトロン


    パトロンといえばルネサンス期のメディチ家が思い浮かぶが、もちろんそれ以外にもパトロンは存在した。今回はパトロンがどう中世文学を支えていたのか、というお話。

 

    前章までの話からも分かるように、このころの文学とは写本が中心であって現代のような大量印刷、何万部! なんてことは起こりえない。むろん著作権も印税もない時代である。むしろ当時は特定の人間に宛てて詩を書いたり製本したりする方が自然で、その「特定の人間」がパトロンに当たるわけである。要は王様が子どもを授かった折にそれを祝う詩を書いてお金をもらったりした。こういうのを「状況の詩」と教科書は呼んでいる。

 

    つーわけで中世詩人というはお金持ちにすり寄らなければ生けていけない動物だったわけである。時には貧乏な自分をネタに、その悲惨さや滑稽さを誇張した詩で金品に預かる。(完全に太宰はこのころの詩人をインスパイアしてるな)

 

 そんな詩人の筆頭にあげられるは、やはりフランソワ・ヴィヨン。彼は詩の力を駆使して金品要求・恩赦嘆願・禁錮釈放、やりたい放題であった。が、この辺はまとめても教科書の引用にしかならないので省略。

 

 

 文字の力、とりわけ詩の力というが当時どれだけ強大だったかがよく分かる内容。今回ボブ・ディランが受賞したときも思ったけど、詩っていうのは歴史的にみると小説のだいぶ先輩にあたるんだよね。むしろ当時の音楽と言った方がいいんだろうな。バラードの形式とか、歌のAメロ、Bメロ、みたいな感じだし。

日本の物語文学 第4章

伊勢物語

 前回は伊勢物語の「愛」が焦点だったが、本章は「旅」にフィーチャー。
 物語のよくある話型に『貴種流離譚』というのがあるそう。高貴な血筋の主人公が不運な事故・陰謀などで放浪の身となり、旅先で出会った人々を救ったり悪党を退治したりして、そこで豊かに暮らす、或いは元の居場所に戻る。というタイプの話。伊勢物語で業平が東下りをするのとか、光源氏が一時的に須磨・明石流離するのとかがそう。スサノオ高天原を追放され出雲でヤマタノオロチを退治するのもこの話型だし、義経もこれらしい(そういえば、こんなとこきとうはなかった!って清史郎くん叫んでた)。もっともこの二人は、ラストは不遇な死に終わるけれども。
 いろいろ考えたけど、もののけ姫のアシタカもぴったりこの話型ですね。


 まあこんな感じでいったん如意宝を手放しつつも、さらに良い如意宝を手にして輝くのが英雄のライフスタイルである、というお話。

 

 業平は情事のために都を立つことになる(自業自得じゃねーか)。この際、同じ『貴種流離譚』でも、自発的に旅立つのと強制的に旅立たせられるのと、二つのパターンがある。業平の場合は後者の感じが強いが、都に居られないから東に行くぜ! という勢いには自発的な気持ちが感じられなくもない。
 そして旅の途中、愛知県の三河あたりで詠んだのがこの歌。

 

 唐衣着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ

 

 この歌はちょっとすげえな! 
「かきつはた」という五文字を頭に据えてあるだけでなく、「衣・着る系」の言葉と「妻・旅」とか奥さんを残して旅に来ている系の言葉が掛けまくられている超絶技巧歌。そして愛知出身の友達にこの話題を振ったらふつうに知ってて余計びびる。これ、学校で習ったかなあ?

 隅田川で詠んだ方の句は

 

 名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人は有りや無しやと

 

 これも有名な歌。旅先でもそう簡単にちょろい女が現れないのは伊勢物語が峻厳な世界認識を持っているからだとかなんとか。三七三三人の女と遊んどいてよく言うよな。

 

 

 まあでも、よくある好色男系の話かと思いきや、かきつばたの歌でがらっと印象かわったなー。そりゃ名作になりますね。伊勢物語源氏物語と違って「給う」の尊敬語が少ないので読みやすいんだって。まあ気が向いたら読んでみよう。東下りの部分くらいは。

心理臨床の基礎 第4章

精神医学

 たのしいライフサイクル論の時間は終わり、今回は精神医学とかいきなりヤバそうな分野に足を踏み入れる。教科書読むと「生きていることの意味と物語」「新しい精神の科学」とか書いてあるし、なにこれ。新興宗教?

 教科書は冒頭からゲノムとかニューロン群協調発火パタンとかわけわかんない言葉が続くので泣きそうでしたが、放送授業だとその辺はカット。


 まずは精神症状の病因理念三種について。

(1)器質因(外因)・・・脳組織の変性・身体疾患などが起始原因である物質素材での異常(ex.意識障害認知症

(2)心因・・・環境状況や文化に不適切な部分があり、神経回路網結合パタンに偏倚が生じる異常。不適切な学習(ex.パニック障害、PTSD、適応障害

(3)内因・・・遺伝が関係してて原因の実体が不明(ex.統合失調症とか)

 これら患者の内的体験を傾聴し、その症状と内的体験・意識連関に共感性があれば「了解可能」といい、逆なら「了解不能」という。

 

 実態として、個々の疾患・疾病をこの三種のどれかに帰することは困難であるが、しかし同時に器質因・心因・内因という病因概念が無用なわけではない。患者を「診立て」るうえでは欠かせないものである。
 「診立て」とは診断とは違い、傾聴の中から了解不能な部分を弁別し、器質因・内因で説明して治療の仮説をたてること。

 まあ精神医学なので治療には薬を使って神経回路網の結合パタンとやらを変えるわけだけど、本来の目的が結合パタンの変容にあるのではない。目指すのは患者さんの悩みの解決や、かくありたい生き方の実現なので、その支援で心理療法は様々な場面で活躍するよ、みたいなお話。

 

 ここまではまあいい。後半が神がかっていてちょっと難しい。

 要約すれば、心身問題についてはいろいろあるけど、新しい精神の科学では「一元二面論的理解」というのを使って主観的現象も脳内物理現象も同一現象の二足面としてとらえるよ! みたいな話。ほんとにそれでいいの?
 人間の根源的願望を進化の原理と結びつけて、われわれは生命の叙事詩の中で生まれ生きていく存在であることを実感する! みたいな。ちょっとまとめ書いてて怖くなってきた。おかしいな、こんな授業ではなかったはずなのだが。

 

 

 人間の基本的願望(食べたい、Hしたい等)は狩猟時代からの生態適応にあわせて完成したものなのだがら、ここ数百年の社会激変に適応できるはずもないじゃん。だからそれが「社会因」となって心の病気が生み出されてるんだよ、という考え方はすっきり分かりやすくておもしろい。

ドイツ哲学の系譜 第4章

判断力批判


 そもそもなぜカントは三批判書を書いたのかさえおぼつかないのだけど、その中でもこの『判断力批判』はなぜ書かれたのか特に分からない。
純粋理性批判』ではアプリオリな綜合判断は如何にして可能かが説かれて、そこで二律背反に終わった問題が『実践理性批判』の中では定言命法を絡ませて解決する……みたいなイメージで(たぶん正しい理解とは相当離れてるだろうが)、一応得心いってるのだけど、この『判断力批判』は本当に分からん。なんで理性とか悟性とか認識とか超越論的弁証論とか言ってた人が急に「趣味」について語り出すわけ。美とか崇高とかがさっきまで語ってた内容となんの関係があるわけ!

 

 前期に履修した『近代哲学の人間像』だと、この『判断力批判』は巻末の方で次々と新しい概念が登場してひどい混乱を招く、みたいなけっこうマイナス評論だったのだけど、この『ドイツ哲学の系譜』ではそういうニュアンスではない。むしろ三批判書の一つの頂点をなす、とか書いてある。

 なぜ?

 どうやら『判断力批判』で登場する「共通感能」(哲学用語って一発変換できねえなあ!)がアプリオリな綜合判断の問題を解決させてしまうかららしい。ふむふむ。
 あとは、この「共通感能」にまつわるテーマが批判哲学の根本動機である「啓蒙」、それもその「困難さ」であるからだとか。これはちょっと意味わかりませんね。

 

「共通感能」ってのは確か美とか崇高とかを語るあたりで出てきたカントの用語だ。
「共通感能」=「可能な認識一般に必要なもの」「それは認識判断一般においても意義を有する」「もっぱら感情のみに関わるのではない」くぅ〜、意味わかんねえ。

「認識判断一般」って言葉もどっかに出てきた気がする。うそ。探したけど見つからなかった。哲学用語はこんな感じで、専門用語なのか、ただの熟語の組み合わせなのか、ぱっと見ではさっぱり見分けがつかない。

 

 とにかく。


 この「共通感能」は「趣味判断」の十分条件であるようだ。ここで趣味が登場するわけだな。

「趣味判断」は「万人に賛同をあえて求める」「共通感能があるという前提のみで下される」

 富士山を見て「この山は美しい」とか言うのが「趣味判断」にあたる。

 出たよ! 哲学あるある「○○を見て××」系の比喩! この花を見るとき、花と私の関係は純粋に××である、みたいな説明よく見るよね。これ分かるようで全然わかんねえんだよな。

 

 文句ばっか言ってられないのでがんばろう。


 とにかく客観的な知識を記述するのではない「この山は美しい」には、たとえ山の名前を知らなくても判断を下せるし、そこには普遍性が認められる。それは利害関心を離れてさえ、私たちが満足を覚える評価判定だからである。つまり趣味判断はアプリオリな綜合判断だってことですよね先生! ここが違ったらもう知らん!

 お、ここまで分かれば話は早いじゃん。この趣味判断は
「共通感能があるという前提のみで下される」のだし、共通感能は「もっぱら感情のみに関わるのではない」し、「それは認識判断一般においても意義を有する」わけでしょ?

 そして共通感能を具体化する三箇条は
(1)自分で考えること
(2)他のあらゆる人の立場で考えること
(3)いつも自分自身と一致して、つまり首尾一貫して考えること
 なわけで。
 ここに認識批判と、ひいては理性批判を核とする批判哲学の根底があるというわけです。

 

 

 よかったね! これで『純粋理性批判』から始まった謎が解かれたじゃないか! あーでもどうせこの解釈ぜんぜん違うんだろうなー! カント哲学がこんな単純な話なわけないしなー! だけどもう無理です! これ以上は分かりません! もう本当に分かりません!

文学のエコロジー 第4章

ルネサンス人の読書


 黙読が可能になったことにより読書の現場はプライベートな領域へと移っていく。

 登山に本を持って行き、アウスグティヌスの言葉に感銘を受けたペトラルカ。没落先でも読書に耽って野心を燃やしたマキャベリ。自宅の中でもウロウロ、引きこもる場所と動く場を分けていたモンテーニュ

 

 この章の大きなポイントは、内と外。

    自分の観念の内と外。自分の家の内と外。あるいは政治的空間の内と外。先にあげた三人はこの内と外を往来しつつ、そこに読書を絡めて生きた人物である。読書が個人的な領域に移ることで内と外の分割、そしてその相互作用が可能になったということか。

    たとえばペトラルカは山の頂上で風景を見ながら郷愁にふけっている間、持ってきた本を読んで「またお前は外の世界ばかりに気をとられているな、もう少し自分を振り返って見ろ!」と言われて愕然とするわけだけど、ここでは人間の思考の内と外をつなぐ役目としての読書が語られている。そしてこの読書の仕方は、かつての中世僧院で物静かに神の言葉を「味読」していたのとは一線を画した、心身の自由な営みである。

 

 まあ俺はもう二度とアウグスティヌスなんて勉強したくないと思っているわけだけど……