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文学のエコロジー 第4章

ルネサンス人の読書


 黙読が可能になったことにより読書の現場はプライベートな領域へと移っていく。

 登山に本を持って行き、アウスグティヌスの言葉に感銘を受けたペトラルカ。没落先でも読書に耽って野心を燃やしたマキャベリ。自宅の中でもウロウロ、引きこもる場所と動く場を分けていたモンテーニュ

 

 この章の大きなポイントは、内と外。

    自分の観念の内と外。自分の家の内と外。あるいは政治的空間の内と外。先にあげた三人はこの内と外を往来しつつ、そこに読書を絡めて生きた人物である。読書が個人的な領域に移ることで内と外の分割、そしてその相互作用が可能になったということか。

    たとえばペトラルカは山の頂上で風景を見ながら郷愁にふけっている間、持ってきた本を読んで「またお前は外の世界ばかりに気をとられているな、もう少し自分を振り返って見ろ!」と言われて愕然とするわけだけど、ここでは人間の思考の内と外をつなぐ役目としての読書が語られている。そしてこの読書の仕方は、かつての中世僧院で物静かに神の言葉を「味読」していたのとは一線を画した、心身の自由な営みである。

 

 まあ俺はもう二度とアウグスティヌスなんて勉強したくないと思っているわけだけど……

日本の物語文学 第3章

伊勢物語


 伊勢物語ってなんだっけ。

    紀貫之が作者……? あ、それは土佐日記か、ってレベル(ガチです)
 どうやら源氏物語の前身となるハーレム物らしい。冒頭文は、

 

 むかし、男、初冠して、平城の京春日の里にしるよしして、狩にいにけり。

 

 やべえ、全然知らねえな。平城の京とかいってるくらいだから奈良時代が舞台なんだろう。そうだろう。でも主人公の在原業平平安時代の人だな。作品が完成したのは十世紀後半とか書いてあるし。もうよく分からん。
 ちなみに流布本を校訂して第二の作者と呼ばれているのは定家さんだそうです。本物の作者は不詳。複数の人物によって書かれたものだろうと見られている。

 

 伊勢物語に出てくる女性は「女」としか書かれてなくて、『和歌知顕集』『冷泉家伊勢物語抄』で誰が誰かと揣摩憶測されているようだ。もっともその読み方は、室町時代一条兼良に否定されているのだが。

 内容は不倫・ロリコン・近親相姦、なんでもござれ。特にお后との不倫、という設定が好まれたよう。「天皇というタブーへの挑戦」とか教科書には書いてあるけど、まあ今も昔もロイヤルプリンセスと結ばれる妄想をするのは変わらないということです。(佳子さまとか可愛いもんね)

 

 伊勢物語にしろ源氏物語にしろ和泉式部日記にしろ、なぜハーレム物なのか? たくさんの男女が出てくるオムニバスではだめなのか?
 教科書いわく、これは物語文学が「男のライフ・スタイル」「女のライフ・コース」という統一感を大切にしたため、とのこと。オムニバスだと人間の多様性は描けても人生の成熟は描けないとかなんとか。人間の心の成熟を希求するのが物語文学ジャンルなのだとか。

 

 前章の如意宝という観点で考えれば、在原業平光源氏という大きな宝に、小さな宝の女性が引き寄せられるという構図になる模様。
 これによって、物語の書くべき主題を「愛」とした竹取物語に続き、人間の愛に関する探求を格段に深めたのが伊勢物語なのだとか。

 実際、伊勢物語の影響はでかいようだ。
 天皇の妻と密通して子を孕ませるとか超ショッキングな発想だけど、それが源氏物語で割と受け入れられているのは、伊勢物語が先行しているから。
 こんな感じで源氏物語には伊勢物語の引用が多数ある。

心理臨床の基礎 第3章

ライフサイクル理論その2

人生後半の意義について


 前回はフロイトエリクソンのライフサイクル理論をやった。フロイトは幼少期を、エリクソンは青年期を重要視したわけであるが、今回は人生後半も意義深いとしたユングとレヴィンソンについて。

 ユングは人生の前半と後半を「午前」「午後」と呼び分けるので、ここでもそれに準じることとしよう。
 ユングは人生の午後になると人生の午前に無視してきた問題や義務の要求が顔を出してくるようになるという。
    午前の目的は『自然目的』(子孫を育んだり仕事したりとか)であるが、午後は『文化目的』(自己実現)である。青年期の問題はフロイトアドラーの考え方で説明・治療できることが多いが、40代以降の問題はユングの方法のみで治療可能なことが多いとかなんとか。

 

 ちなみに人生には午前と午後があるので、「人生の正午」もあるわけである。ユング曰く、それは35歳から40歳頃だという。まあでもこれは、ユング自身がその頃にフロイトと決別したことで心理的危機を経験したことも関わってるらしいね。フロイトにしてもエリクソンにしても、若干理論に私事が絡んでいるようである。

 

 レヴィンソンも人生後半を重視しているようだけど、心理的発達の要因に個人の人生における「内的価値」と、仕事や家族などの「外的価値」の両方を据えているところが微妙に違うかな?
  
 まとめてしまうと、幼少期、青年期、そして人生の正午近辺がライフサイクルにおける過渡期だと見なされてきたわけだが、高齢化社会の現代においてはここに「老年期」も過渡期として加えられるだろうとのこと。

 

 あとまあ、ユングがちょっと面白いことを言っていて、人生午後に差し掛かった人はどうも疑似青年ぶりを示すという。要はもう年なのにいつまでも若くいたいと願ってそういうファッションをしたり行為したりするということで、まあそれはよく見かけることだしユングも悪いとは言ってない(嘆かわしいとは言ってるみたい)だけど、これは東アフリカにある部族の長老が示す威厳だとか、同族成員からの尊敬の念だとかとは対照的なものだという。
 西欧文明は自我の確立が人生のピークだと考えがちだが、個性化が達成したあとの人格の中心は「自我」ではなく「自己」であるという(教科書だと単語レベルの差異しか書いてないからこれ以上のことはわかんない)
 要はいつまでも老いに囚われるなってことですよね。「人生の自然な終点は老いではなく叡智」ですって。

ドイツ哲学の系譜 第3章

実践理性批判』とその前後『基礎づけ』と『永遠平和のために』について


 一文たりとも理解できないカントの中でも唯一理解できそうな『実践理性批判』。その理由はといえば、定言命法の部分が意外にすっきりした形をとっているからだろう。
 カントは、他の目的を実現するための行為(〜したいなら、〜せよ・仮言命法)ではなく、行為以外の目的をもたない行為(〜せよ・定言命法)を強く打ち出す。
 ではそれはなぜ? と考えるとぜんぜん分からない。その方がシンプルだからとか欲がなくて純粋だからとか、分かりやすくてテキトーな理由が用意されてれば楽だけどぜんぜんそんなことはない。


 カント曰く、定言命法は「人間にとっての行為規範を示すアプリオリな道徳の法則」を与えるのであり、「義務に基づいて意志するとき『意志の自律』が実現しており、行為主体は『自由』である」という。なるほど分からん。

実践理性批判』には「道徳」という言葉が頻出するが、この「道徳」を小学校で習う優しげなノートの表紙に書いてある言葉程度に捉えているといつまでもカントが偏屈爺に見えるところから進まない。
 おまえにとって「道徳」ってなんなんだよ。と思ったら「道徳とは、行為に関して諸原理からまったくアプリオリに導き出すことができる、唯一の合法則性である」って書いてあった。なるほど分からん。

 

  『純粋理性批判』でアポリア風に終わった二律背反の問題(自由は存在するのか・しないのか、的な)が解決しちゃうのも『実践理性批判』の特徴だよね。
 そのわけは、感性界と叡智界に反立と定立を割り振ることによるわけだけど、これって僕には感性界では不可能なことも叡智界ならなんでもありだから問題ないんだよって言ってるように聞こえるのだけど、そういうことでいいの? そんななげやりな答えでいいの?

 

 そこまで行くと、次の問題は「人間の自由はいかにして実現するのか」という問題であるらしい。(この問題解決してなかったんですね)。ちなみにそれは「意志の自律によってである」そうです。意志の自律ってなんだ。そもそも意志ってなんだ。


 ああ、ここでさっきの定言命法に繋がるのか。義務に基づいて、みずからの定言命法にしたがって行為を意志するとき「意志の自律」が実現しており、行為主体は「自由」である、らしい。要は定言命法の方が自由だってことだな!

文学のエコロジー 第2章

 前回見たように、かつての文学は口承芸能であり、音の本領を発揮する演芸の場でこそ真骨頂が見られたのであるが、徐々に文学は「文字」を基盤とする体制へと姿を変えてゆく。

 

1 中世の読書
 中世のキリスト教社会において読書といえば、それは聖なる営み(修行)であった。聖なるテクスト(これは聖書のことでいいのだろうか?)は音読され、耳を通じて心に刻む「味読」が中心だった。(これはマリア様が処女のまま子を授かった、いわゆる耳から妊娠したとかいうやつと通ずる?)
 読書・瞑想・祈り・観想の4つが聖なる読書を構成していた。読むという行為は口の運動と深い関係にあったわでけである。
 「文字」とは「音」の表象であって、あくまでも「音」の方に本質があるという考え方はその後も根強く残ることになる。
 そもそも当時は句読点や英文中のスペースなども一般化していなかったのだから、速読なんてできるはずもなかった。むしろ注意深く一字一字読むことが肝要であり、そうった文章を解きほぐす作業も読むという営みの一つなのであった。

 

2 読書、写本
 この中世の読書における聖なる営みは「読む」ことだけではない。カルトジオ会の隠修士たちは「写す」こともしていた。仏教と写経と似た感じだろうか。聖なるテキストを個室で筆写し、テキストと向き合う。どうやら孤独と沈黙のうちに神と向き合うことが重要であるらしい。場合によっては沈黙を守るために「手話」を重視したところもあるようだ。
 こうした写本は修道院の主な収入源なったらしいから、それは徐々に労働へと姿を変えていったようだけども、筆写には様々な略号が用いられていたらしく、必ずしも読み手を重視したものでなかったことは確かだ。あくまでも生産者重視だった。

 

3 読書・写本の新時代
 そして12世紀。ヨーロッパ各地に大学が出現する。これら中世大学で展開されたのは「スコラ哲学」であり、この担い手は新興の「托鉢修道会」だった。こうなれば聖なる読書は辺鄙な修道院に追いやられ、勉強するということは「英知」を獲得することから「知識」を得る手段へと変わり、その知識で問題を解決したりする実践的な方法へとなっていった。
 読書が聖なる存在との触れ合いにとどまるだけでは、もう時代遅れになったわけである。つまり読書は「区別」「証明」といったテクにより問題の「是非」を問う知的バトルへと変身する。そしてこのことはルネサンス時代のユマニスト等から批判される。
(スコラ哲学があんま良い印象をもたれないのってこの辺が原因なのかね)

 とはいえこうなれば書物の性質も変化する。書物は、声・ロゴスの宿る場所から知の倉庫へと変貌した。
(よく図書館は知の宝庫だ! とかいったりするけど、それ以前はロゴスの宿る場所だったわけなのな)

 

4 黙って読むこと
 その昔、本を読むといえば声に出して読むことが当たり前だった。前述の「味読」「音の方に本質がある」といった考え方から頷けるであろう。当時、黙読とは特殊技能に近かった。文字は音の影であり、音を吹き込んでこそ意味がある、書かれたものを楽譜のように捉える比喩が分かりやすい。
 ところが読書の新時代では黙読が徐々に支配的になっていく(あくまでも徐々に、というのが大切らしい)。法律・司法の場でも、それまでは宣誓証言重視の体制の中に「供述書」が現れたり、遺言状が出てきたりする。音から文字への移行、記憶から記録への転換が起こっていることを物語っている。なお、物語作品についても口承・韻文から散文への書き写しが起こるのもこの頃である。

 

5 活字
 そうなってくると、かつての「生産者重視」だった書物は「消費者重視」の形へと変わっていく。黙読・速読を助けるために視覚的な文節が起こり、注釈注解が増えてオリジナルは遠ざかっていく。とはいえこれも徐々に、らしい。そして生まれる活字本。それまでの写本は、ある意味うわさに近い存在だったが、活字本ともなればかなりの信頼性が寄せられる。このことはモンテーニュのエセーで「ばかばかしい言葉だって、印刷すれば箔がつく」と揶揄されたりしている。

 

 

 時代変化に伴う読書の変容、といった内容の回。こういうのを聞くと真っ先に電子書籍のことが思い浮かぶけど、授業中に先生が再三いうようにこういう変化って「徐々に」なのである。

日本の物語文学 第2章

1 竹取物語にみる物語の如意宝
 日本最古の物語にはたくさんの「宝物(=如意宝)」が現れる。これはその後に隆盛する物語ジャンルの特性である。物語、及び物語の登場人物たちはこの如意宝を掴んだり失ったりして話型は展開する。
 話型とは「登場人物の人生を具体的に作動させるプログラム」のこと。登場人物たちの相容れない願いが、各々別々の如意宝を探求させ、それが成就したり挫折したりして物語は紡がれる。

 

2 物語のテーマである幸福
 見えない運命を可視的に表現するのが如意宝である。この如意宝の有無で運命は変転し、数学の一次関数、二次関数のようなグラフの話型を作り出す。
 なぜ如意宝には人間の運命を何度も変える力があるのか。それは如意宝が人間の「心」のシンボルだから。
 心は目に見えないが、心は成熟と堕落を繰り返す。ここに物語が如意宝を素材とする理由がある。物語文学は「心」が如何に人間を幸福にしたり不幸にしたりするかを凝視する。
 如意宝にはどんなものがあるか。富・地位・名誉・健康、色々あるが物語文学の場合は「愛」が多い。幸福は人と人との間にあるというのが物語文学の教え。

 

3 竹取物語の場合はどうか
 翁の場合はまず、かぐや姫という如意宝を手に入れる。しかしその後、かぐや姫の意図に反して富豪と結婚させようし、結果かぐや姫の喪失につながる。(そうだったっけ? 日本昔話レベルだと初めから帰ることが決まっていたようなノリだったけど)
 求婚者たちの場合、かぐや姫獲得のため如意宝を手にしようとするが、手が届かない。その理由となる心については、おそらく結婚の動機にある。
 如意宝を持つ資格のある人間には、正しい願いを持つことが求められる。
 なお、かぐや姫が地上に現れた理由は、月世界の王曰く「月世界で罪を犯した」から。かぐや姫自身も完璧ではなかったのである。しかしこの完璧でない、傷ついたヒロイン(ヒーロー)こそ、「幸せになりたい」という願望に共感し、他人を幸福にすることができるのだという。(紫の上、人魚姫、スサノヲetc...)
 そして最後には、帝や翁はかぐや姫から渡された不死の薬を放棄する、つまり如意宝を捨てる、という話型に終わる。これは未熟さゆえの如意宝喪失とは似て非なる、真実の如意宝を獲得するための決意である。
 竹取物語が「物語の出で来はじめの親」と称されるのは、このような「愛」を如意宝として謳い上げ、それが以後に踏襲されたから。

 


 心理学で「公正世界仮説」ってやつをやったけど、物語の世界は正にこれだし、特にこの手の昔話はそれが顕著である。

心理臨床の基礎 第2章

1 ライフサイクル
 ライフサイクルという用語の歴史はエリクソンに始まる。
 レヴィンソンによればこの言葉は「出発点(誕生)から終了点(死亡)までの過程の旅」「一連の時期を『段階』に分けて捉える『四季』」としての2つの意味がある。人生の各時期には特有の問題が生じることから、これらの視点は重要である。
 ライフサイクルという用語が使われるようになった背景には①寿命が長くなったこと、②中年期以降の個性化の意義が問われるようになったこと、があげられる。

 

2 フロイトの精神性的発達段階論
 フロイトは、神経症は無意識に固着していたリビドー(性的欲動)を開放することで治癒されると考えた。そしてそのリビドーの在処を幼児期の親子関係に求めた。
 ただしこの理論は、成人神経症患者の治療の中から見出した理論であり、実際の観察に基づいたものではない。
 事実、この理論を実証しようと半世紀後に夥しい研究が行われたが、一貫した結果を得ることはなかった。

 

3 エリクソンのライフサイクル論
 エリクソンはこの発達理論を社会的・文化的な文脈で捉え直す&青年期を重視し、自らの価値選択によって自分をいかに形づくっていくかという過程が重要とした。青年期までを4段階、それ以後を4段階、計8段階に区分した。
 なお、エリクソンは女性のライフサイクル論にも論及しており、女性の身体構造「子宮」に着目した。女性な「内的空間」の成立が、女性のアイデンティティ形成にとって重要であるとしたのである。
 女性のアイデンティティのうちいくらかは、配偶者となる男性や子供のために開かれていて、内的空間に歓迎するものの選択が可能になったとき、女子青年のモラトリアムは終結するんだって。もっとも現代では、男性も女性も同様のライフサイクルとみる研究者が多いようだけども。

 


 女性のライフサイクル論は現代の独身女性が聞いたら激憤しそうな話である。でも、ほら! 「歓迎するものの『選択』が可能になったとき」って言ってるから! 選択できてれば問題ないから!