ドイツ哲学の系譜 第2章

1 『純粋理性批判』の前に
 『純粋理性批判』の構想に達する前のカントを前批判期、以後を批判期と呼んで区別する。前批判期のカントは自然科学に関心を寄せていたと見ることができる。
 「批判」……あらゆる経験に依存せずに、認識できるものとできないものを判別すること

    この試みはカント曰く「形而上学が一般に可能であるか不可能であるかの決定」に関わるという。つまり、理性の自己批判形而上学の可能性の吟味に通じる。彼は神や自由や霊魂不死などの「経験に依存しない」ものを論じてきた人なので、伝統的に哲学の最重要部門と見なされる形而上学のについても吟味しようとしたわけである。
 なお、カントの3批判書は「人間とは何か」という問いに帰着する。カントは哲学をヴェルトヴァイスハイト(世の訳知り)として受け止めた啓蒙の哲学者である。

 

2 『純粋理性批判』に至るまで
 そんなカントがイギリス経験論の哲学者ヒュームに衝撃を受けたというのは有名な話。その時点に理性批判の出発点を据える見方もあるが、しかしこの時点の彼の論文では二律背反の問題が触れられていない。(アンチノミーの問題に気づいてない?)
 ところでカントにとってのヒュームの衝撃というのは、彼の経験論を容認すれば形而上学の学は掘り崩されてしまう、ということ。つまり客観の認識を成立させるのはどのようにしてか、説明されなければならない。(ヒュームの哲学って因果を重視する感じだったっけ…)
 さて、そしてその後、教え子ヘルツに宛てた手紙の中では、「形而上学の秘密を解く鍵」として「純粋悟性概念の演繹」が明確に指摘されている。なので教科書ではここに理性批判の出発点を据えている。
 で、『純粋理性批判』の基盤となる概念「アプリオリ」と「超越論的」の意味について。
 アプリオリ……「端的にあらゆる経験に依存しない」こと、一般に経験を可能にするもの
 超越論的……アプリオリな事柄へのアプリオリな構え、を意味する形容句

 

3 『純粋理性批判
 この書物の心臓部を成すのは「超越論的分析論」の章。その要となるのが「アプリオリな綜合判断は如何にして可能か」という問題。
 綜合判断……主語Sに含まれていない要素を、述語Pが付け加える場合の判断(この花は赤い、的な?)
 この綜合判断こそ、私たちの認識を拡張し、経験に依存せず経験を可能にする性質の判断である、と。
 そのためには、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うという発想の転換が必要。
 カントにとって認識主観は認識緒能力の合成体である。ただしそこにおいて、感性と悟性は交換不能の別物であり、認識の成立においては両者の協働が不可欠となる。
 感覚は個人限りの刺激だが、悟性のはたらきによってそれは認識となる。
 アポステリオリな綜合判断の根底にはアプリオリな総合判断が存在している。すなわち、経験的認識にはアプリオリな認識が常に同伴しているのである。
 まとめると、アプリオリな綜合判断が成り立つのは、主観が対象を、空間・時間のうちに位置づけられる存在として構成する場合に、その可能性の制約として、である。
 逆にいえば、霊魂や神や自由などの物自体を論じる形而上学の学問性は否定されたことになる。

 なにこれ……

文学のエコロジー 第1章

1 導入

 かつての口承文学の時代において著作権などというものはなく、現代に伝わる古代の作品は様々な写本を学者が校訂したものであり、決してオリジナルのテキストを読んでいるわけではない(このへんはこれまでの文学科目でも常々味わったから問題なく納得)

 

2 ロマンス語
 現代のフランス語・スペイン語・イタリア語・ポルトガル語などは崩れたラテン語から派生した語(ロマンス語)といわれる。こういった言語共同体の創世記には、その民族の歴史を歌ったフィクションが作られやすいという。(ex.『イリアス』『ユーカラ』『わがシッドの歌』『ニーベルンゲンの歌』)
 なぜか? その背後に民族的エネルギーの胎動があったから?

 

3 口承性
 フランスの口承文学「武勲詩」はジョングルールと呼ばれる旅芸人によって言い伝えられた。(琵琶法師みたいなもの)
 そこでは文字ではなく声によるパフォーマンスにこそが文学の真骨頂であった。なお、曲芸・手品の動詞であるjuggleとも関係が深い。

 

4 ロランの歌
 そのフランス武勲詩の傑作ロランの歌
 作品の成立は長い伝承を経て作られたのか、天才詩人によって一気につくられたのか、はっきりは分かっていない。イリアス平家物語と同じで、口承文学にこういった問題はつきものである。
 物語の山場では、同一のアクションが表現をかえて繰り返し現れる。こういった強調によってドラマチックな効果が生まれるといい、これも語り物の特徴であるという。
(良い例が浮かばないけど、大きなカブとか、シンデレラが靴を履くシーンとか、確かに伝承物はこういった演出が多い。そしてそれがうまく機能している)

 

 

 ずっと狙っていた科目。ようやく受講できたぜ。
 テキストは少々厚いが内容はすんなり入ってくるし、今期の癒し科目になること間違いなし!

心理臨床の基礎 第1章

(1)心理療法
 心理療法は人間の負の側面を扱う故に危険を伴うものであり、熱意や親切心とは異なった専門性が求められる。また実際的訓練を受けていることも必要。クライエントが自分独自の解決を見いだす援助をするものであり、「じゃあ、こうしたみたらどう?」と安易にアドバイスするものとは本質的に異なる。

(2)臨床心理学
 心理療法よりもう少し広い実践行為を前提とする学問。健康的な人であっても学問の対象であることが要点。この臨床心理学の実践のことを「心理臨床」を呼ぶ。

 

2 心理臨床の専門性4領域
(1)査定
(2)面接
(3)地域援助
(4)研究・調査

 

3 臨床心理学が生じた4つの実践現場
(1)児童相談の現場
 はじめて「臨床心理学」の語を使用したのはウィットマー
(2)医療現場
(3)教育現場と戦争現場
 IQで知られる知能検査は、もともとビネーがフランス文部省からの委嘱をうけて作成したビネー・シモン知能検査に原型がある。
(4)職業指導の現場

 臨床心理学が様々な現場からの要求に答えるかたちで発展してきた学問である。

 

4 その後の臨床心理学
 日本の臨床心理学が本格展開を始めたのは第二次大戦後(米国文化流入後)である。

 


 まだまだ発展途上の学問だなという印象。心理学の歴史が浅いのは散々学んできたが、そのうえ日本における臨床心理学の歴史はわずか70年足らず(!) 100年後には現代の心理療法もアナログすぎて笑われているだろう。メスメルの催眠療法が今は否定されているように。

ドイツ哲学の系譜 第1章

1 ドイツ哲学とは何か
 そもそも「ドイツ」とは何か。意外にも「ドイツ」とは不分明なものである。例えばドイツ哲学の代表者であるカントが生涯を送った街ケーニスベルクがこんにちはドイツでないこと等……
 「ドイツ王国」という言葉が公式に用いられるのはヴォルムスの協約(1122年)から。よってこの辺りにドイツ哲学の出自を求めることは一応できる。事実、エックハルト・タウラー・ゾイゼ・ベーメ、などの思想家の名前がこの時代に連なる(ドイツ神秘思想)。
 とはいえ、ドイツ神秘思想など19世紀の創作だという意見&神秘思想にドイツ精神の源流を求める傾向がナチズムに繋がった、等も考え合わせることも重要である。むしろこの時期のドイツは汎ヨーロッパ的な性格の方が強かった。

 

2 ドイツ哲学の形成
 ではどこにドイツ哲学の出自を求めれば良いのか?
 当時ヨーロッパで覇権を握る神聖ローマ帝国。そのドイツ王国の部分を指して「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになるのが15世紀以降。ここにドイツ哲学の形成開始を見ることもできる。特に『哲学史要綱』ではこの時期のドイツをドイツではなく「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という単位で採用している。
 というわけで、そこで「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」を待ち受けていた宗教改革と、そこに関係深いルターの思想からこの授業は始まる。

 ルターは宗教改革の過程で、それまでのカトリック教会に奉仕していたアリストテレス形而上学を排斥する。教会において自然的認識と神学を行き来させていた形而上学が不要とされたのである。
 とはいえ、その後のプロテスタント圏において形而上学がまったくの無縁であったわけではない。スアレス形而上学の対象を「実在的存在である限りでの存在」と主張し、創造後の「存在」のほうに形而上学の場面を転換している。これはつまり神学とは別の形而上学の胎動を含意する。
 そんなスアレスに親しんだのライプニッツ。彼の思想が順調に後生に伝わったわけでないというところから、ドイツ啓蒙主義の授業に繋がる。

 

3 ドイツ啓蒙主義
 啓蒙の観点から重要なのは、この時期にドイツ語が哲学のための言語として整備され始めたこと。ライプニッツを受け継いだ(と、一応見なされる)ヴォルフが哲学著作をドイツ語で刊行するこの頃、諸学問の用語がラテン語からドイツ語に移す試行錯誤が重ねられた。
 さしあたり重要なのは、啓蒙期ドイツ人にとって「哲学」は神学に対立するものと理解されたこと。故に青年カントが「哲学」の語を使うとき、この意味合いが含まれていることも否定できない。

 


 すげー慎重な授業。石橋を叩いて、叩いて、叩いて……ここは何処? ひたすらこの流れ。
 世界史の知識が完全に頭から抜けているので、神聖ローマ帝国とかカール大帝、とかの名前だけで頭痛が始まる。うう……高校の教科書引っ張り出すしかない……

日本の物語文学 第1章

1 物語とは何か

 真実と虚構が融合したもの。例えば源氏物語は、歴史的事実に準拠しながら虚構を織り交ぜてつくった作品である。また、その意味では作り物語と歌物語は別個のものではない。

 

2 物語は何でないか
(1)神話との比較
 神話は現実世界の「起源」を説明するものである。物語はあくまで虚構。
(2)歴史との比較
 物語が歴史に準拠する点があるのは事実。だが、一度失脚した人物が権力の絶頂に立つことは歴史的にありえないのに、光源氏はそれをやってのける。そこが歴史との違い。なお、紫式部は源氏に「歴史より物語のほうが人間と世界の本質を書き留めている」などと言わせてるらしい。
(3)エッセイとの比較
 エッセイは自らの思想を一人称で書き付けるものであるので、そこには展開性が求められない。そこが物語との違い。

 

3 作者の存在にみる、物語の魅力
 物語は作者の主張を前面には打ち出しにくい、一見遠回りなジャンルである。実際、ほとんどの現存する物語の作者は不詳である。(竹取物語とか?)
 ただ、物語は作者の名前が不要なジャンルでもある。作者が不詳であっても、優れた物語を読めば作者の人間性がわかり、語る内容と語る作者の魅力が合体したときに名作が生まれる。一方で作者の個性が爆発しているのが枕草子徒然草などのエッセイ。

 

 結構とっちらかってた印象。第一回目の授業にはありがちなことだけれど。
 とにもかくにも、源氏物語が古典文学の最高傑作!という前提で話が進むのでどーにもつっかかる。確かに日本の古典物語文学の中ではそうなのだろうけれども……、ダンテの神曲でも思ったが歴史的価値と作品の面白さは凡人にとっては別物なのである。

 物語とはなんであるか。古来の作品を分析するうえでは重要な観点かもしれないが、現代以降はもうナンセンスな気もするなあ。ふらんす物語修善寺物語、次郎物語……いろいろと近代以降の作品名はでてきたけれども、現代以降で、たとえば西尾維新が物語とは○○である! といった思索をもとに化物語を書いたのかな? なんて思ってしまう僕である。もっともそれは「理論が先にあって小説がかかれるのではない」という島内先生の言葉に誤魔化されておこう。

感想『日本語概説』

 日本語概説


 日本語をガチで学問する専門科目。事前情報で「難しい」「地雷科目」などと聞いてはいたがあえて取ってみました。
 面白いですよ。でもそれを覆い尽くすほどのマニアックさ……。いうなれば「来世使える!日本語講座!」といったところか。(語弊はあります)

 

 全体の流れは、
 ①発音→②文法→③文体→④方言
 
 ①発音
 のっけから超マニアック。
 発音記号ごときでびびってちゃいけない。撥音・破擦音・口蓋化、などという用語が説明もなしに次々と飛び出す。
 それだけに普段意識せず使っている日本語への新たな発見があることは間違いないだろう。でもそれが何か役に立つの? などという疑問は野暮である。

 

 ②文法
 学校文法とは異なります、とまず前置きがあり中~高と古文法に泣かされた私はとりあえず安心、するが早いかテンス・モダリティ・アスペクト・ヴォイスといった専門用語に当惑する。終助詞、形容動詞、補助動詞とかの用語も当然のように使われるしね。
 それでも会話文・小説の地の文での時制の違いなど学ぶところは多い。
 なお、学校文法とは異なるといいつつ未然連用終始連体なんかもちゃんと出てきます。上一段活用、係り結びの法則、なんかも。
 あまりに辛かったのかテキストの端にこんな落書きをみつけたので転載。

 

 もぅムリ…

 まぢムリ…
 ありをりはべり いますがり……


 ③文体
 このへんから楽になってくる。かつ楽しい。
 ひらがなやカタカタの誕生、過去の日本語文体などについて。

 

 ④方言
 ここまでくれば様々な地域の方言が飛び出すお楽しみ科目に早変わり。この専門科目いきなり面白い。

 

 試験について
 もちろん持ち込みは不可。
 覚えてないと一発アウト問題多数。
 放送で省略した箇所からも普通に出る。
 そしてマニアック。
 これが専門科目である。

 

 試験が最終日なこともあって今期ラスボス感が半端なかったです。でもまあ、最終的には結構やれたと思います。少なくとも古文の助動詞とか活用表とか忘れてても履修できることは証明されたかな。

感想『近代哲学の人間像』

 近代哲学の人間像


 『西洋哲学の誕生』と対になる哲学導入科目。平均点が高いので今期の癒し科目と位置づけていたが、やっぱり内容はムズいね。分かってましたよ佐藤先生!

 

 ルネサンス期の哲学から始まるので、古代~中世に特化した『西洋哲学の誕生』の受講後でよかったかな。一方『実存と現象学の哲学』で学習したフッサールにはテキストの最後で出会えてそれはそれで感慨深く、まあ順序はどちらでもいいのかもね。

 

 次は『ドイツ哲学の系譜』に進むつもりだが、初っぱなからまたカントですか……。『近代哲学の人間像』でますます苦手意識を持ったのがカントとへーゲルでした。